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足利三代将軍、足利義満により四十万坪の広大な敷地に造営された北山弟(きたやまてい)。天下統一の象徴として建立された舎利殿(塔と同じ意味)を四代将軍義持は、舎利殿、法水院、不動堂の三堂だけ残しその他の建物を全て破壊した。応仁の乱にも舎利殿は焼失せず昭和25年に放火されるまで残った。     その後再建され、現代に至る。

金閣
八代将軍足利義政は、応仁の乱で焼失した浄土寺跡に東山山荘を営む。金閣舎利殿とは違い、隠居地として造営した。義政は観音殿(銀閣)の完成を見ずして55歳で他界する。よって未だ完成していない。銀閣と呼ばれる様に成ったのは江戸時代末期からだと云われています。 当時12棟在った建物の内、現代は2棟(銀閣、東求堂)だけ残り、残った2棟は国宝です。
銀閣
豊臣秀吉は、甥の豊臣秀次へ聚楽第と関白の位を譲るが、1595年に秀次が失脚し切腹させられると聚楽第も取り壊され、建物の大部分は伏見城に移築された。
飛雲閣は、聚楽第から移築された建物であるとも言われている。
飛雲閣
前田利家の正室であるお松の方(芳春院)が、京都に於ける前田家の菩提寺として造営した大徳寺芳春院に、京都の名医「横井等怡」が「小堀遠州」と協議し、池を掘り橋を架け楼閣を建てた。池を「飽雲池」、橋を「打月橋」、楼閣「呑湖閣」と名付けた。
呑湖閣とは、 比叡山の向こうの「琵琶湖」を飲むという意味だそうです
呑湖閣
東福寺の開山(円爾弁円)を祭る開山堂。 信貴山城が、松永久秀によって、日本で最初に天守閣を付けた城として修築された。この天守閣は、伝衣閣をモデルに造営されたと伝えられる
伝衣閣